千日念仏廻向供養塔
市指定有形文化財(歴史資料)北3丁目

この供養塔は、幸手宿荒宿の浄土宗寺院、聖福寺の信蓮社単誉上人を導師として、道誉尊入比丘が願主となり、江戸時代前期の延宝5年(1677)に造立されました。ここには、武家をはじめ、浄土宗寺院門徒の僧侶のほか、権現堂村や幸手宿、内国府間村など近郷近在約24か宿村、総数1,200名を超える人びとの法名や俗名が刻まれています。身分の垣根を超え、亡くなった先祖の追善供養と、自らの極楽往生を願って千日間の念仏供養を行い、満願成就を記念してこの供養塔を造立したと考えられます。
法名の中には、江戸幕府の代官頭(後の関東郡代)の伊奈忠次(勝林院殿秀誉源長居士)、その二男忠治(長光院殿東誉源周居士)、忠治嫡男の忠克(月光院殿法誉了心居士)と忠克の妻女(宝林院殿)が見えます。
さらに関東郡代の伊奈忠常とみられる「伊半十郎殿」をはじめ、伊奈家家老の「大河内与丘(兵)殿」や「栗田与惣右エ門」などが見え、造立当時の伊奈家の当主と家臣がこの供養塔の造立に加わっています。これは、同種の供養塔において類例を見ず、歴史的に高く評価されます。
伊奈家は、利根川の瀬替えをはじめ、幸手用水や琵琶溜井などの用水路や排水路の整備と新田開発に取り組み市域発展の礎を築きました。
このように、千日念仏廻向供養塔は、関東郡代伊奈氏と幸手とのかかわりを示す歴史資料として市の貴重な文化財です。
更新日:2025年01月09日