江戸時代の権現堂堤と幸手領

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更新日:2022年07月21日

今では、春の桜をはじめ、四季折々の花の公園として親しまれている権現堂堤は、江戸時代には、「御府内御囲堤」ともいわれ、権現堂川の洪水から幸手を守るだけでなく、首都「江戸」の防災上、重要な役割を担いました。

さて、江戸時代の幸手市域の大半は、「幸手領」に所属していました。この範囲は、幸手をはじめ、現在の久喜市の一部と杉戸町の一部、そして春日部市の一部に及ぶ広い地域名称です。

幸手領では、領に所属する村々によって「権現堂川通り堤川除組合」が組織されていました。

 

権現堂堤の「堤付き十ヶ村」と幸手領の村々のグループ分けの状況を色分けして示した図

幕府から命じられる堤防工事や、権現堂川の増水から堤を守る水防作業などが行われるとき、現場で働く人足として村人を差し出したり、工事資材の購入費用を組合が負担したりしたのです。

とくに、治水上重要だった権現堂堤は、幕府勘定奉行支配下の普請役が直轄する定掛場に指定されます。

その範囲は、西端の八甫村(現久喜市)から千塚村・円藤内村・松石村・高須賀村・内国府間村・権現堂村・上吉羽村・木立村を経て、上宇和田村に至ります。堤の総延長は、5895間、約10キロメートルに及ぶ長大なものでしたが、幕府は堤を決壊させないよう厳しく管理していきます。

この八甫村から、上宇和田村の合計10ヶ村は、総称して「堤付き十ヶ村」と呼ばれました。

幸手領に所属する村々は、この10ヶ村のいずれか1ヶ村とグループを組み、水防人足や土俵に使う俵を負担したのです。

このように、江戸時代の権現堂堤を守ったのは、幸手領の村々だったのです。

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