幸手に来た若き日の渋沢栄一

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更新日:2021年05月18日

今年(令和3年)はNHK大河ドラマ「青天を衝け」が放映され、埼玉県ゆかりの偉人「渋沢栄一」が、注目されていますね。

渋沢栄一とは?

天保11年(1840)、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に生まれた栄一は、元治元年(1864)2月、御三卿の一橋家の用人 平岡円四郎の推薦で従兄の渋沢喜作とともに同家の家臣となります。

その後、慶応2年(1866)に一橋家当主の慶喜が徳川宗家を相続したことで、栄一は幕臣となり、明治維新後は、政府に仕官した後、実業界に入って日本の発展に尽くしました。

なぜ幸手に来た?

栄一が幸手に来た理由、それは仕官した一橋慶喜の動きと深くかかわります。

文久2年(1862)に一橋慶喜は、江戸幕府第14代将軍徳川家茂の将軍後見職となります。

次いで、元治元年3月に家茂とともに京都へ行った慶喜は、朝廷から新たに禁裏守衛総督という京都御所を守る最高責任者を命じられます。

ところが当時の一橋家には、慶喜を護衛する兵しかなく、ほとんど軍事力を持っていませんでした。

そこで仕官して間もない栄一は、このままでは御所を守れないので自分に歩兵の募集を命じてほしいと願い出ます。そして、この意見が認められ、同年5月末に旅立ち、渋沢喜作とともに関東の一橋家領知の村々をめぐることになったのです。

幸手の古文書に記された二人の足取り

江戸時代、幸手の村々のうち下宇和田村、外国府間村、高須賀村(現在は大字惣新田の一部)、中島村、細野村は、延享4年(1747)以来、一橋家の領知でした。

このうち、高須賀村の元治元年8月の古文書には「渋澤成一郎(喜作)様・同篤太夫(栄一)様」が「歩兵を組み立てるための人選御用で私たちの村に廻村された」と書かれ、惣新田村の龍吉という23歳の青年が選ばれています(『幸手市史 近世資料編2..』所収No363文書)。

古文書から、当時24歳の若き渋沢栄一が幸手に来たことが分かります。

 

「渋澤誠(成)一郎様と渋澤篤太夫様」と書かれた古文書の宛名部分

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