権現堂河岸の発展と終焉

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更新日:2021年02月07日

江戸時代になると、陸上交通網が整備され、それとともに、海上・河川交通も発展を遂げました。

日本の一大消費地となった江戸の生活を賄うため、年貢米をはじめ、全国各地から江戸に向けて物資が輸送されました。大量の物資を安価に、そして迅速に運ぶには、船が極めて有利でした。このため、関東の諸河川も都市と村をつなぐ大動脈として整理されました。

船が着き、荷物を上げ下ろしする場所を河岸と呼びます。利根川や江戸川など、関東の主な川沿いの多くの地が河岸として機能していましたが、その中で江戸幕府に公認され常設的に機能していた河岸の一つが権現堂河岸でした。

権現堂河岸は権現堂村のうちにあり、利根川の支流の権現堂川に設けられた河岸です。江戸時代から大正時代までは活発な商品流通を背景に扱い量も多く、帆をかけた高瀬船が行き来し栄えていました。

 

権現堂川を帆走する高瀬船(故浜田得一氏撮影 大正時代)

また、河岸を中心に町場が形成され、発展していたことが、残された古文書等からも窺えます。

しかし、その後の鉄道・道路輸送の拡充政策に加え、河川の洪水対策により、昭和2年(1927)に権現堂川が締め切られ、河岸も幕を閉じました。

郷土資料館の展示室では、権現堂堤の歴史の中で権現堂河岸についても紹介しています。

ありし日の権現堂河岸に思いを馳せてみてください。

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