「下河辺」と「板碑」から考える中世の幸手

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更新日:2020年07月19日

「中世」は、日本の歴史の時代区分の名称です。平成14年に刊行した『幸手市史 通史編1』では、「第3編 中世の幸手」として、鎌倉時代から南北朝・室町時代、戦国時代までの幸手とその周辺の歴史が描かれています。

源頼朝が平氏打倒の旗揚げをした治承4年(1180)あたりから、豊臣秀吉が小田原の北条氏を破ったのち、徳川家康が領知を関東に移した天正18年(1590)までの約400年ほどがそれにあたります。

中世の幸手市域は、下総国に所属していました。下総というと、現代の感覚では千葉県の北部地域というイメージですが、江戸川右岸の西関宿・中島・花島・槙野地・細野を除く市域の大半が武蔵国へと所属変更されるのは、じつは江戸時代が始まってからのことです。

「下河辺」は、下総国葛飾郡の北部にあり、同郡の大半を占める広大な地域の名称ですが、幸手市域もここに含まれたと考えられています。その範囲は、茨城県古河市、千葉県野田市をはじめ埼玉県久喜市東部や春日部市・松伏町・吉川市・三郷市にわたります。

正平7年(1352)の銘がある板碑

下河辺と呼ばれた幸手を物語る当時の古文書は限られています。しかし、市域には、中世を代表する「板碑」という文化財が、今に数多く伝えられています。

板碑は、板石塔婆・青石塔婆とも呼ばれる中世独特の宗教的な石造物です。その造立時期は13世紀前半の鎌倉時代から16世紀末の戦国時時代にいたる約370年ほどです。なかでも14世紀の南北朝内乱時代に最も盛んに造られました。

資料の少ない中世にあって、板碑の存在は、幸手にも人びとの生活があったことを示す証しです。

郷土資料館の歴史展示室には、板碑を展示しています。ぜひ一度、ご覧ください。

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