幸手のお茶と俳人
江戸時代の日光道中幸手宿の面影を今に伝える歴史ある建物は、幸手の歴史と文化を物語る文化的資源として活用され、市の誇りになっています。
建物以外にも、地域づくりに活かせそうな幸手の文化的資源が、まだまだ眠っています。
まずは、お茶です。狭山茶でも、猿島茶でもなく、幸手のお茶です。
『幸手市史 近世資料編2.』に惣新田村の「茶園御改帳」という古文書が掲載されています。これは、寛文13年(1673)に、同村の領主だった関宿藩が茶園を調べた帳簿です。
この文書から当時の惣新田村には、合計約9.3キロメートルに及ぶ「畦畔茶」が栽培されていたことが分かるのです。
「畦畔茶」とは、畑の境や屋敷廻りに、土の飛散を防ぐため細長く植えられたお茶のことです。
水田地帯がひろがる今の惣新田に、現在お茶の栽培風景は見られません。しかし、江戸時代の初めころに、こうしたお茶づくりの風景があったとは、意外な事実です。
もう一つは、幸手が生んだ俳人・中野三允です。
以前にも紹介しましたが、明治時代に俳句の革新運動を起こした正岡子規の直門で、俳誌「ホトトギス」の選者も務めた幸手が生んだ偉人です。
新たな幸手の文化的資源の掘り起こしに、期待は高まります。
育て始めたお茶の苗木
更新日:2020年07月19日