関宿向河岸の河岸問屋-喜多村藤蔵家と干鰯

ページ番号 : 5291

更新日:2020年04月30日

江戸時代の幸手は、江戸川を通じて江戸と結びついていました。また、利根川を西に遡れば上州に、渡良瀬川を北上すれば下野とも通じ、さらに利根川を東に向かえば銚子へ、そこから海に出ると、今の東北地方や北海道とも連絡しています。

とくに、大都市となった江戸の人びとの消費生活を支えるため、年貢米や多くの物資が各地から江戸へと輸送されます。

当時、大量の物資を安く、迅速に運ぶには、陸上輸送より、川船で運ぶ方がより効果的でした。

川船が荷物を積み下ろす場所を河岸といい、幸手には、権現堂川に権現堂河岸が、江戸川に関宿向河岸など幕府公認の河岸がありました。

関宿向河岸は、今の大字西関宿にあった河岸です。江戸川の最上流にあるため、流量を調整する棒出しや、川船の往来を監視する関宿関所も置かれた関宿向河岸は、物流の拠点であると同時に、治水の安定や治安の維持の面でも、大きな役割を担い、関宿第一の繁華な土地柄として栄えます。

こうした河岸には河岸問屋があり、さまざまな荷物の積下しを取り仕切っていましたが、中でも関宿向河岸の喜多村藤蔵家(屋号「喜多藤」)は、隆盛を極めました。

関宿随一の粕干鰯問屋となり、関宿を本拠としながら、江戸にも店を持ち、江戸時代後期には四千両、幕末には五万両の商い高があったともいわれています。

また、穀問屋を営むほか、近隣の村むらの土地や江戸の町屋敷を集積するなど、多角的な経営を行っています。

平成30年度の市史講座では、第1回目に学習院女子大学教授の岩淵令治さんが「関宿向河岸の河岸問屋 喜多村家の土地集積―江戸時代を中心に―」というテーマで、第2回目に千葉県立関宿城博物館 主任上席研究員の榎美香さんが「関宿向河岸は干鰯の一大ターミナル~江戸時代を変えたイワシ肥料の生産と流通~」というテーマで、それぞれ詳しく解説していただきました。

喜多村藤蔵と父の富之助の名前が見える古文書

この記事に関するお問い合わせ先

幸手市郷土資料館

〒340-0125 埼玉県幸手市大字下宇和田58番地4
電話・ファックス 0480-47-2521

メールでのお問い合わせはこちらから