白木綿の地域ブランド「幸手白」

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更新日:2020年07月19日

幸手では、明治時代に染色しない木綿糸で織った白木綿(シロ)の生産が盛んでした。

その歴史は、埼玉県東部地域では、岩槻が古く、幸手はそれに次ぐといわれています。このため、「岩槻白」「幸手白」といえば、白木綿の代名詞だったことや、幸手の取引量が36万反に上ったことが、明治42年(1909)の織物資料に記されています。

また、明治23年(1890)の資料には、埼玉県北葛飾・中葛飾両郡域では、白木綿の生産が農作業の合間に女性が行う日常的な仕事であり、主な産地に幸手町と権現堂川村が含まれています。

明治時代中頃までに生まれた幸手の女性は、地機で縞などの反物を織り、自家用の普段着を作っていましたが、次第に賃金を得る仕事として機織りをする賃機が主流となります。織る速さは上手な人で1日に3反くらいだったそうですが、機屋が1反いくらで引き取ってくれました(『幸手市史 民俗編』)。

『幸手市史 通史編2.』には、明治7年(1874)の権現堂村(北三丁目ほか)で、綿が約98貫(約367キログラム)、木綿糸が約20貫(約75キログラム)、そして白木綿が987反も生産されたと記され、白木綿の原料となる綿の生産や収穫した木綿から糸を作ることも盛んであったことが分かります。

また、幸手の町場には、白木綿を取引きする「シロ(白木綿)商」「シロ屋」が十数軒ありました。

木綿糸問屋から原料の木綿糸を仕入れたシロ屋は、糸を機屋や農家に渡して織らせます。こうして織られた白木綿の反物は、荷馬車か権現堂河岸から船で東京へ運び、問屋に卸され、各地に流通していったのです。

 

機織り機

郷土資料館では、本格的な高機で機織り体験ができます

このように、幸手で製造され、地名をとって「幸手白」と呼ばれた白木綿は、まさに当時の「地域ブランド品」だったといえます。

しかし、その実態は分からないことが多いのです。

このため、幸手市郷土資料館では、幸手の白木綿の生産に関する資料(古文書・機織り機、写真など)を積極的に収集しています。そうした資料がありましたら、ぜひ郷土資料館までお知らせください。

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幸手市郷土資料館

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