幸手音頭と権現堂堤の歴史

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更新日:2020年04月30日

権現堂堤の幸手音頭の碑の写真

 幸手音頭は昭和26年(1951年)生まれです。
 その一番にある「♪ハァ~エ昔しゃお江戸を守った土堤も 今じゃ桜のネ~ アレサの桜の花の山 ソレ」という歌詞は、みなさんにもお馴染みですね。
 「土堤(どて)」とは、権現堂堤のことです。また「お江戸を守った」とは、かつての大河である権現堂川の洪水から、遠く江戸までも守る堤という意味です。
 その昔、権現堂川は関東随一の河川である利根川の一派として豊かに水をたたえ、水運にも利用されました。とはいえ、利根川の水を直接受ける流路であったため、大水になると堅固な堤でさえ決壊することもありました。あふれ出した濁流は、将軍のお膝元の江戸(御府内)まで押し寄せ、幾度も被害を与えたのです。
 このため、権現堂堤に対する江戸幕府の治水政策上の重要度は高くなり、幕府は手厚く堤を管理しました。同時に、権現堂堤が決壊しないよう水防活動に命がけで尽くした幸手の住民は、「江戸を守る堤」を自分たちが守っている、という誇りを感じていたのです。

権現堂堤

 そもそも、権現堂堤は、今から440年以上も前の戦国時代、天正4年(1576年)に築かれたとする記録があります(天正2年とする記録もあります)。以降、治水上の安定を得た幸手では、人が移り住み、村が生まれ、広大な耕地が開発されていきました。つまり、権現堂堤は、大水の被害から人々の生命と財産を守り、安全な地域を築いた立役者でした。
 時の流れの中で、その役割は変化し、今は「桜の山」となった権現堂堤をたたえた幸手音頭は、堤の歴史を物語るかたりべとなっているのです。

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