災害が残した遺産
高須賀池は、天明3年(1783年)の浅間山の大噴火の後、天明6年(1786年)に発生した大洪水で、高須賀村と松石村の境界部分の権現堂堤が決壊したときにできた押堀池です。
当時の高須賀池は面積約3ヘクタールで、形状も現在とは異なり、南北に長い池でした。
また、高須賀池には低地の小さな湖沼には珍しく水深が10メートル近くもあり、池の表層と底層の水温差が大きく、特徴的な生態系がみられました。
このため戦前から、数多くの湖沼学者により池の生物や土質などの調査研究が行われるなど、世界的にも知られた池でもありました。
「この小さな池はおそらく日本の池の中で、もっともよく海外の学者に知られている湖である」と、この池で調査を行った菅原健博士(名古屋帝国大学)が述べているとおり、昭和初期に湖沼学者の注目を集めていたのです。

昭和22年(1947年)のカスリーン台風により発生した大洪水で再び権現堂堤が決壊し、池の姿は大きく変わりました。
南部の大半は土砂で埋まり、逆に北部は強い洪水の勢いでえぐられ、水深が10メートル近くある新たな湖盆が形成されました。
池の形状が変化した後も、湖沼としての価値は高く、平成3年度に自然環境保護法に基づく環境庁の調査対象天然沼として選定され調査が行われました。
平成初期に埋め立て計画が持ち上がりましたが、市と地元の熱意により、計画は一転し、環境保護のための整備が行われ、現在の高須賀池公園となりました。
高須賀池は、災害の脅威を伝え、市域に残る唯一の押堀池として、現在も貴重な歴史的遺産です。
更新日:2020年06月02日