「平将門の首塚」の歴史

大字神明内の浄誓寺の本堂裏手には、高さ3メートルほどの塚が築かれています。これが市指定文化財(史跡)の「将門の首塚」です。
平将門は、10世紀前半(平安時代中期)にいわゆる「平将門の乱」を起こした人物です。この塚は、戦死した将門の首を愛馬がくわえてここに運び、村人か家来が埋めたものといわれ、その伝承を物語るかのように古い五輪塔が塚上に安置されています。
この塚の歴史を示す資料として、江戸時代の元禄16年(1703年)に、大名の水野隠岐守勝長の家老・水野織部が著わした『結城使行 全』(茨城県結城市発行)があります。
そこには、以下のように書かれています。
「ここ(上高野村)から一里(約4キロメートル)ほど東北の「しへ打」(神明内)という村に平親王将門の墓所があるという。また、木立という所は、将門滅亡後に子孫が隠れ住んだとして「公達村」(木立村のこと)と書くという」(現文意訳)

この資料は、有名な赤穂浪士の討入りの翌年に書かれたものです。つまり、今から300年前、すでに将門の墓の情報が世間に知られていた事実を確認できるのです。
平安時代に生きた平将門と、幸手との具体的な関わりを示す史実は伝わっていません。しかし、江戸時代の初めまでの市域は、将門と関係の深い「下総国猿島郡」に所属していました。いわば、同じ郡内で活躍した人物が将門であったということです。
一千年以上も前のことになりますが、「将門の首塚」から草深い平安時代の幸手の姿を想像してみてはいかがでしょう。
更新日:2020年03月26日