正岡子規の門弟 俳人 中野三允

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更新日:2020年07月21日

 中野三允(さんいん)は、幸手出身の俳人です。明治12年(1879年)幸手宿の荒宿で薬局を営む中野徳治の二男として生まれ、本名を準三郎、別号は俳毒庵(はいどくあん)といいました。
 明治時代に俳句の革新運動を起こした正岡子規の直門で、明治29年(1896年)ごろに入門、俳誌「ホトトギス」の選者も務めました。
 東京専門学校(現早稲田大学)で学び、明治32年(1899年)に日本派早稲田句会を結成、在学中に薬剤師検定試験に合格しています。
 のちに、川島奇北(きほく)、中山稲青(とうせい)とともに明治時代の埼玉俳壇の三傑と称される埼玉を代表する近代俳人です。
 俳句の師として子規を心から尊敬した三允を、同じ子規門下の俳友で高野山管長であった和田不可得(ふかとく)は「直門中でも特に子規行者というべき方」で「その一言一行、皆故人崇敬の念より出でざるは無く」と評し、その崇敬ぶりを伝えています。

俳毒庵中野三允

さいたま文学館で開催された中野三允の展示会のポスター

 

 明治35年(1902年)に子規が亡くなります。このときの三允の悲しみは深く、没後毎年1月2日には必ず子規の墓参を恒例にし、敬慕の念は、終生尽きなかったようです。
 三允の俳句での業績に埼玉最初の俳誌「霰(のちに「アラレ」)」や「このみづ」の発行があります。また、幸手では昭和24年(1949年)から現在まで発行が続く「若草」の選者として、指導にあたりました。


 この中野三允の関係資料が、さいたま文学館の収蔵品展「-子規門の奇才-俳毒庵 中野三允」で平成26年(2014)に初公開されました。


 【お知らせ】

幸手市郷土資料館の歴史展示室の常設展示では、中野三允を紹介する解説パネルと関係資料を展示しています。

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