橘守部と雷権太夫

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更新日:2020年07月21日

橘守部

 今回は、江戸時代の幸手の偉人を紹介します。
まずは、江戸幕末学界の偉人・国学者の橘守部です。守部は、天明元年(1781年)伊勢国小向村(三重県朝日町)に生まれ、17歳で江戸へ出て、国学研究を志し29歳の時に、内国府間村(現在の北二丁目)に転居。文政12年(1829年)に江戸へ戻るまでの20年間を幸手で過ごしました。
 守部は、当時国学研究の主流であった本居宣長の学説に対抗し、独自の学説の確立に努め、「天保の国学四大人」の1人に数えられるほど古典研究の著作を残しています。
 守部の住居跡(県立幸手桜高校内)には、「橘守部翁遺蹟碑」があります。また、幸手中学校・西中学校、幸手桜高の校章には「たちばな」が用いられ、守部の偉業を称えています。

雷権太夫

 次に、相撲年寄の七代目・雷権太夫です。権太夫は、下吉羽村に生まれた力士です(生年不明・本名は金子粂蔵)。初土俵は寛政11年(1799年)、文化8年(1811年)に引退。天保9年(1838年)雷権太夫を襲名し、現在の相撲協会理事長に相当する「筆頭」を13年間務め、角界で絶大な勢力を揮いました。
 弘化2年(1845年)雷権太夫は、権現堂村の若宮権現社修復のため、7日間の相撲興行を同村地内で行いました。その数、東西大関ほか力士400人余・行司30人という異例のものでした。

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