令和6年度特別展『幸手小学校の歴史-資料が受けつぐ明治・大正・昭和の姿-』

ページ番号 : 14147

更新日:2024年10月24日

展示期間 : 令和6年10月19日(土曜日)から令和7年1月26日(日曜日)まで

期間中の休館日 : 月曜日(祝日の場合は開館し、翌日が休館となります)・年末年始

ところ : 幸手市郷土資料館(幸手市大字下宇和田58-4)

入場無料

幸手市立幸手小学校は、令和3年度に創立150 周年を迎えた伝統ある小学校です。
そうした長い歴史をもつ伝統校であることを象徴するように、幸手小学校には、明治時代をはじめ、大正時代、昭和時代の古い文書や教科書などさまざまな資料が長く保管されてきました。その数は、2000点を優に超えます。このうち作成年代が分かる約1400 点の資料のうち、3割程度が明治時代と大正時代の資料で構成されていますが、市内では希有な資料群となっています。

今回の特別展では、これら貴重な資料群のうち明治時代と大正時代、そして昭和22 年までに作成され、幸手小学校の歴史を理解するために役立つ資料を中心に紹介します。

1 幸手小学校の歴史の証-学校沿革誌と日誌-

学校沿革誌は、学校の歴史や組織など、その変遷を学校が記した
編さん資料です。政府の指示で編さんするものではなく、各地方
や学校独自の判断で編さんされたものでした。
幸手小学校資料で「沿革誌」と名付けられた資料は5点あり、
明確な作成年代が判明するものは、黒田金五郎校長が中心と
なって編さんした昭和14 年(1939)9月の「学校沿革誌」です。

学校沿革誌とともに幸手小学校資料には、多くの日誌が含まれています。明治20 年(1887)を最古のものとし、それ以降、一部欠本はあるものの、平成23年度まで合計112 冊あります。

2 明治時代-小学校の発祥と確立-

小学校制度の始まりと整備

現在の学校教育制度のはじまりは、およそ150 年前、明治5年(1872)8月に発布された「学制」にさかのぼります。近代学校制度に関する最初の基本法令である学制によって、日本全国に小学校が設立されていきます。

幸手宿の学校創設

幸手宿で学校が創設されたのは早く、明治5年(1872)2月に幸手小学校が元幸手宿の本陣を勤めた知久文造宅の書院で、同年6月に啓蒙学校が新井宗次郎宅の2階でそれぞれ開校しました。これは、学制発布よりも数か月前のことでした。
「啓蒙」という校名からも文明開化の新しい西欧の知識を地域に積極的に取り入れようとする姿勢をうかがい知ることができます。

義務教育の確立と校地・校舎

明治30 年代になると、小学校教育制度は、完成期を迎えます。明治33 年(1900)に小学校令が改正され、尋常小学校の就学期間は4年間に統一され、高等小学校はその上に2年間(ないし4年間)とされました。これをもって尋常小学校4年間が、日本全国一律の義務教育となりました。

明治11年に新築された擬洋風建築の校舎

明治34年「校舎増築」申請時に添付した「校舎ノ平面図」埼玉県立文書館収蔵 行政文書No.明3272-138

3 大正時代-大正自由教育と実業教育の展開-

日本の小学校教育制度は明治40 年代に確立していきました。
当時の教育内容は、日露戦争後の帝国主義的な政策に沿って、国民の統合を目指したものでしたが、そうした流れは大正時代初期にも続いていきます。
その一方で、大正期には「大正自由教育」が展開します。特色は、それまでの教育活動が教師本位で、児童への一方的な教授だったのに対し、児童本位で児童の自主的学習を重視する「自学主義」をとったことにあります。

大正6年に発行された『最近 幸手町誌』の口絵に掲載された校門付近

幸手実修女学校の裁縫実習風景

4 昭和時代(戦前期)-戦争に突き進む社会と学校-

満州事変から、昭和12 年(1937)の日中戦争までの準戦時期は、戦闘と昭和恐慌後の不況にさらされ地域社会が大きく変化します。
学校行事でも、出征兵士に対する銃後の活動だけでなく、児童に軍国思想を注入するための行事が盛んに行われるようになります。また、新嘗祭や新年祭などの際、神社への参拝が行われ、敬神思想や皇国思想に基づく行事も頻繁に行われました。

昭和14年4月6日 入学奉告祭の新入児童

『新入児童写真帖』より

「学校沿革誌」に綴られた昭和12年4月現在の校地平面図(部分)

5 校旗・校歌制定ものがたり

幸手尋常高等小学校の校旗は、大正4年(1915)に、校歌は、大正5年(1916)にそれぞれ制定されています。

校旗の制定

大正4年(1915)11 月、大正天皇の即位大礼の記念事業を計画することになり、職員で協議した結果、関連記念事業に校旗制定を加えることになりました。
以降、数回の職員会で議論を重ね、管理者である鈴木潔幸手町長と協議したところ、概ね内諾が得られ、町会で審議するため、急いで校旗の図案を検討します。

校歌の制定

校歌は、大正4年(1915)8月3日、埼玉県師範学校に校歌の作詞と作曲を依頼します。
細かな要件として、校旗の精神、すなわち「赤心(誠心)=生地の濃紅」、「潔白=染抜いた小の字」、「天真爛漫=桜花」、そして「幸福=幸手小学校の「幸」の字」を含むこと。また、郷土の有様として、「利根川」、「筑波山」、そして「武蔵野の中心にあたり、米や麦の産地である土地」との関係や、学校の歴史についても簡単に伝えています。
10月5日、校歌の歌詞が完成します。作歌者は、下中弥三郎です。さらに、同年12月21日、校歌の楽譜が完成します。作曲者は、成沢潤三(蔵)です。
そして、翌大正5年(1916)1月10 日、校歌の認可を文部省に申請し、同年9月27 日ようやく校歌として認可されたのです。

校旗の図案

「学校沿革誌」に書かれた校歌

この記事に関するお問い合わせ先

幸手市郷土資料館

〒340-0125 埼玉県幸手市大字下宇和田58番地4
電話・ファックス 0480-47-2521

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