歴史と文化財

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更新日:2023年09月14日

幸手の歴史

 約8000~6000年前の縄文時代、今の低地は海底でしたが、槇野地の台地では狩猟や採集による生活が営まれていました。縄文時代の終わり頃には気候が寒冷化にむかい、海が湿地に変わり、弥生時代に移っていきました。高野永福寺の由来を記した龍燈伝記によると、弥生時代後期の約1800年前に、日本武尊が「薩手が島」に上陸し、田宮の雷電神社に建御雷の神を祀ったことが「さって」の呼び名の由来とされています。

一本の木と石灯籠の間に見える瓦屋根にオレンジ色の外壁の雷伝神社の外観写真

【雷電神社】

出典:幸手歴史物語川と道

 幸手は交通の要衝としての歴史が長く、鎌倉時代から戦国時代にかけてその第一期を迎えました。吾妻鏡によれば、高野の渡が奥州への重要な拠点とされ、ここを通る鎌倉街道が軍事・交易上大切な道となっていました。高野の渡は、今の下高野満願寺橋付近にあったと考えられています。

下高野満願寺橋が川の水面に反射して映し出されている写真

【下高野満願寺橋】

出典:幸手歴史物語川と道

 江戸時代が第二期にあたり、日光道中6番目の宿場が置かれ、日光御成街道が合流し、筑波道が分岐する宿場町として栄えました。利根川の付け替え工事が行われ、権現堂川・江戸川を中心とした舟運が盛んになり、権現堂や関宿の河岸には回船問屋が立ち並ぶようになりました。河川の改修によって新田開発も進み、農業が発展しました。

主な河岸を示した地図

【主な河岸】

出典:幸手市史通史編

 明治以降が第三期で、それまでの舟運が衰退し、国道4号が東北地方と東京を結ぶ全国的な幹線道路として機能してきました。また、東武鉄道によって東京と結ばれ、東京の都心から50キロメートル圏の位置にあることから都市化が進み、住宅団地・工業団地などの整備を経て、水田が広がる都市としての現在の姿となりました。

2台の車や見物客が写っている幸手駅開業祝賀会(昭和4年4月1日幸手駅前)の様子の写真

【幸手駅開業祝賀会(昭和4年4月1日幸手駅前)】

出典:幸手歴史物語川と道

幸手の文化財

 幸手の各地にある神社や寺には、大和朝廷の時代から江戸時代にいたるまでの歴史の痕跡や言い伝えが残っています。中でも、日光道中と御成道、利根川の舟運によって栄えた江戸時代からの歴史遺産が多くみられます。

山型の屋根で木造の門構え、梁に彫刻が施された聖福寺勅使門(市指定有形文化財)の写真

【聖福寺勅使門(市指定有形文化財)】

出典:市勢要覧

市内指定文化財一覧

市内の指定文化財一覧は下記をご参照ください。

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