権現堂川について

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更新日:2020年01月14日

    行幸湖(権現堂調節池)から中川の流れは、昔は権現堂川と呼ばれていました。

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【左)行幸湖の水門、右)工業団地北側の中川】

    湿地や沼地が広がる土地も、江戸時代に江戸川や権現堂川が整備され堤防が築かれると、悪水路が掘られて沼地の水が抜かれ、 新たな農村が生まれました。水を引く幸手用水・琵琶溜井なども整備されて、農業が発展していきました。

幸手歴史物語川と道

出典:幸手歴史物語川と道

    鉄道や自動車が活躍する以前は、河川が年貢米や様々な荷物、商人を運ぶ重要な交通路となっていて、 「河岸」と呼ばれる流通の拠点(ターミナル)が発展していました。

権現堂川を帆走する高瀬船

 出典:幸手歴史物語川と道

    昔の権現堂川は水量が多く、権現堂堤は江戸(東京)を守る重要な堤防とされていました。明治になって政府は新たに堅固な権現堂堤(行幸堤)を作りましたが、その後も利根川流域の洪水に悩まされたため廃川を決め、昭和初期に江戸川口と赤掘口を締め切りました。現在の行幸湖は、昭和から平成にかけて多目的調節池として整備したもので、川妻給排水機場と行幸給排水機場で水の出入りを調節しています。

行幸堤起工記念写真

  出典:幸手歴史物語川と道

幸手行幸桜堤側面の図

  出典:幸手歴史物語川と道

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